田中延子コラム

フィジー語学留学つれづれNo4

日本の皆様、いかがお過ごしですか?日本に一時帰国した学生が、フィジーに再入国できるかどうかとか、帰国間近の学生がコロナウイルスの感染が怖いので帰りたくない等、コロナウイルスに関する不安がここフィジーの小さな学校でも広がっています。

さて、2月とは打って変わり、3月になると毎日のように雨が降っています。バンクーバーで経験したようなしとしと雨ではなく、バケツをひっくり返したような雨が一日に2~3回盛大に降ります。4月になると乾季になり、一滴も降らない日が続くので、フィジアンにとっては必要な雨なのだそうです。

さて、いよいよ20日に帰国です。だんだん帰国モードになって来ました。今回は、フィジーのまとめにしたいと思います。

1 フィジーの歴史

フィジーは約330の島からなる共和国です。ニューギニアのパプア人が約8,000年前に住み着いたのがフィジーの歴史の始まりと言われています。Kenさんのブログによると当時は人食文化があったそうです。オランダのタスマン(1643年)、イギリスのクック(1774年)がこの島に上陸し、1881年から1970年までの約100年間イギリスの植民地として、サトウキビの栽培がおこなわれました。その労働力としてインドからカースト制度の中でも一番低いインド人が送り込まれました。

人食の証拠となる絵(kenのブログから拝借)

1970年にイギリス連邦王国として独立しましたが、先住民のフィジー系とインド系の民族対立が深刻になる中、1987年にインド系が政権を取ると、フィジー系のクーデターが起き1990年にフィジー系優位の憲法を公布。1997年にインド系の政治的な権利を拡大する改正憲法を公布し、ようやく「フィジー諸島共和国」となります。2011年に現在の国名である「フィジー共和国」に改称されています。フィジーはその観光資源を武器に発展を進めますが、商魂逞しいインド系が裕福になり、経済のみならず政治にも大きく進出したため、フィジー系が危機感を募らせ、その確執に嫌気のさしたインド人が出ていき、現在の人口構成は。フィジーの国民86万人中、フィジアンが50%、インド系が38%、残りは他の国の人々となっています。

2 ファミリー

Gray家の隣に昨年まで、Big Charlesの父母とSmall Charles 、Margueriteが住んでいました。年老いて(と言っても65歳)管理が難しくなったので売りに出しています。4ベッドルーム、2シャワールーム、プール、土地付きで日本円で3000万円です。高いので、なかなか売れません。今は彼らの家政婦が管理しています。

週末になるとSmall Charles とMargueriteがやってきます。私を待ち構えていてゲームをしようと誘ってきます。Small Charlesはチェスをしたいのですが、誰もルールが分からず、教えてくれると言うのですが、なかなか理解できません。簡単なゲームをすると、彼らはズルをします。不正直なのか、頭が良いからなのか、子どもってこんなものなのかが分かりません。

ある時、Small Charles とMargueriteのママが娘を連れて現れました。とても美人で素敵なドレスを着ています。オーストラリアに居るStep mother(継母)かと思いましたが、Run awayした実母と聞き驚きました。ほとぼりが冷めればこうして出入りできるなんて、なんとおおらかなフィジアンと思いました。しかし、Margueriteはママや妹にべったりですが、Small Charlesは距離を置いています。Big Charlesは無視していました。

3 学校

私のクラスは、学生4人に先生が一人です。ですから、学生も先生に対し遠慮がなく、変だと思うと厳しく指摘するので、時々、先生は立ち往生してしまい「延子はどう思う?」等と助けを求めます。同業者の立場から、つい先生側に立ち、問題が解決するとホッとします。

さて、前述したように私は「ボランティアコース」を選択しており、僅かですがお金を支払っています。

正直、まだ、この学校では、ボランティアコースが確立しておらず、「学生のしたいことをしたらよい」と言うので、流石、それは違うと思っています。フィジーにボランティアの必要な施設があって、学校としてどのような方向性で支援しようとしているのか、それが相手にとって助けになり、学生にとってもボランティア精神をはぐくむきっかけになるのかが大事だと思います。

そんな中、先述した公園での折り紙教室と鬼ごっこに続いて、PASH(動物保護施設)と孤児院を訪問しました。お年寄りの施設で紙芝居をする計画がありましたが、コロナウイルスの関係でキャンセルになりました。

(1) 動物保護施設 PASH(Pacific Animal Shelter and Hospital)

捨てられたり虐待されたり、または、傷ついた犬猫を保護・治療し、里親を探す取組をしている施設で、レントゲンなどの施設が整っています。これら動物の世話や洗濯、掃除などのボランティア活動を受け入れています。たまたまこの日は高校生のボランティアが入っていたため、私たちは餌を購入して差し入れし、施設見学をさせてもらいました。犬猫は手厚い保護を受けていましたが、それでも自分だけを可愛がってくれる里親に引き取られ、Only Oneの存在になりたいのか、盛んに尾を振ってなついてきます。中には、癌が悪化したら苦しまないように、安楽死が予定されている犬もいて、家族に囲まれて、最後の時を迎えるための部屋も用意されていました。

保護されている犬たち

(2) 孤児院訪問

孤児院に折り紙とシャボン玉遊びを教えるために二週続けて訪問しました。開設して間もないキリスト教の施設で、慈愛に満ちた老婦人が施設長でした。ここには、22人の子どもが入所していますが、折り紙に興味のある10人ほどの子どもが参加して飛行機と兜、河童や鶴を作りました。中には身体障害や知的障害の子どももいますが、ほとんどは健常児で、愛情に飢えているのか、体を摺り寄せてくる幼い子どももいます。

折り紙を一人一枚と言っても、一枚は隠し、再度貰いに来る子や目を離したすきに、我々のバックを開けようとする子がいて、昔、孤児院に勤務していた人が子どもに「どうして嘘をつくんだ!」と言ったら「嘘をつかなきゃ生きていけない!」と言い返されたという話をふと思い出しました。子どもたちの特性を理解しつつ色眼鏡で見ないことが大切で、それは、とても難しいことだと思いました。

兜を被った子どもたち

4 アクティビティ

紫外線アレルギーなので、海は苦手ですが、花は好きなので、今日は、Sleeping Giant Orchid Gardenに行ってきました。ナンディには巨人が寝ているように見える山があり、その麓に蘭の庭があります。

学生の仲間二人とタクシーで行くことにしました。フィジーのタクシーはほとんどが日本の中古車で、日本で役割を終えたタクシーが、再びフィジーで活躍しています。クーラー付きのタクシーを探していたら、超肥満体のドライバーが声をかけてきたので、メーター付きか(メーター付きでないと料金を誤魔化される可能性があります)、幾らで行くか等、訊ねます。$18で行くと言うので、(ガイドブックには$30と書いてあった)これは安いと思い乗り込んだら、極めて汚く、足元にはよれよれの段ボールが敷いてあり、もちろん自然通風でした。後述のIzumiさんが「フィジーのタクシーはこんなものよ」と言うので、そんなものかと諦めました。「帰りはどうするの?待ち時間はメーターを切っておくから」としきりに言うので「でも、2時間は待ってもらわなくてはならないですよ」と言ったら、ええーっという顔をしましたが、それでも待っていると言うので、ご自由にしていただこうと思い、Gardenに入りました。

Raymond Burrという外国人が世界中の蘭を集めたものを公開しており、日本のサギ草もコレクションに加えられているそうです。生憎、ハリケーンの後、修復が進んでいないため、入れない部分が沢山あって1時間で見終わってしまいました。それでもジャングルの中に南国の赤い花が沢山咲いていて癒されました。

帰りは、待っていてくれたタクシーでTanoa International Hotelの中の 「一休」という日本食レストランでランチをとりました。(後述、Simizuさんがオーナー)。お好み焼き、太巻きずし、冷やしラーメン、チキン照り焼きを3人でシェアし、$70(3,850円)でした。味、コスパ、サービス、ロケーション共に良かったです。実は、ここでのランチは、お世話になったGrey家を招待しようと思っていたので、雰囲気や味の事前チェックも兼ねていました。

その後、皆と別れ、スーパーで買い物をしていたら、大雨が降ってきたので、タクシーを探しているところに、先ほどのドライバーが大声で手招きしています。一日に2度、同じタクシーに乗るなんて、縁を感じたので、少し、チップをあげました。

5 さよならディナー

18日(水)にGrey家とSmall Charles、Margueriteを日本食レストラン「一休」に招待しました。毎日、車に乗せてもらい、何の不自由もなく過ごさせていただいた私の感謝の気持ちを彼らは素直に喜んで下さいました。Small CharlesとMargueriteは「いい子にしていたら」という条件付きだったため、この日のために相当頑張ったようです。

全員生ものは嫌だと言い、私の助言は全く聞かずBig Charlesは照り焼きチキン定食、Theresaは天ぷら定食、Darrylはチャーハン、 Small Charlesは照り焼きロールと野菜炒め、Margueriteは照り焼きロール、食後にアイスクリームをそれぞれ注文しました。私がシェア用にお好み焼き、照り焼きチキンとラーメンを頼むと、好奇心旺盛にいろいろなものに挑戦して食べたのは子どもたちで、大人たちは自分が頼んだものだけを食べます。食域を広げようとするのは、頭が柔軟なことと関連があると思いました。

最後に、Small Charlesが「今日が最後の日だね」と言うので「明後日が最後だよ」と言うと「いや、僕と延子が会うのがだよ」「また、いつか会えるよ」と大人みたいな会話をして、しっかりハグをして別れました。ぐすん、フィジーでの一番悲しい別れがSmall Charlesでした。

6 知り合った方々

この一か月で、出会った方々で印象的な方々を紹介します。

① Izumiさん(40歳代)学生

物静かで穏やかな女性で、週2回午前中のみ英語を学びに来ています。32歳上の夫とインドで知り合い、28歳の時に結婚。現在、11歳と12歳の男の子がいて、夫のリタイアメントビザでフィジーに暮らしています。「退職真近の男性とよく結婚したね?」と聞いたら、「インドマジックだった」と言っていました。夫妻は平成23年の東日本大震災で家を失った後、夫がインドの大学に招聘され、5年ほど教鞭をとっていました。しかし、夫の癌治療のため日本に帰国。その後、リハビリを兼ねて永住を目指し、フィジーに来ました。インドが好きなので、インド人が沢山住んでいるフィジーは暮らしやすいが、インド本国とは国民性やヒンズー語が変化しており、多少の違和感があると話していました。

② Simizuさん(65歳)日本食レストラン経営

ホームステイのファミリーに大変お世話になったので、日本食レストランに招待したいと考え、下見のため、ランチを食べに行き、オーナーの清水さんに、15年前にフィジーでお店を開いた経緯を伺いました。

学生時代にたまたま、パプアニューギニアでの戦争で片腕を失った漫画家の水木しげるさんが、その時にお世話になった現地の人と今でも交流しているというテレビを見て、その人に会ってみたいと思い、水木先生に電話をしたところ、とても気さくに、その村に行って、その人の名前を大声で叫びながら歩いたら、誰かが案内してくれるからと言われ、その通りにして、その人に会うことができたそうです。

パプアニューギニア滞在中に、木材を扱う人と知り合い、その仕事を手伝ううちに、フィジーに来たのですが、木材会社が廃業してしまい、日本食レストランを開店したのだそうです。妻子は子どもが小学生の時に日本で暮らすようになり、Simizuさんも年に2~3度、日本の家に帰るとのこと。レストラン経営はなかなかストレスも多く、目が離せないのだそうです。何しろ、フィジーの官庁は書類の提出が2~3日遅れただけで罰金をとるのに、3か月遅れた人には大目に見る。それが一定せず、担当者の気分で変わるので、非常に厄介だそうです。また、フィジアン従業員の教育が大変で、指導したら見ている前ではその通り行うが、見ていなければ元のまま。貯金はせず、給料を渡したら、3日で遣ってしまう。彼らは、庭にタロイモやパパイヤ、バナナ、ココナッツなどを植えており、それらを食べていれば、飢えることはなく、最悪の場合でも、誰かが助けてくれるのだそうです。しかし、Simizuさんの瞬発力、行動力には、本当に驚きました。

このように、ホームステイファミリーへのお礼や子どもたちへの別れも告げ、日本で不足しているというトイレットペーパーを20ロール、スーツケースに詰め込んで、後は帰国の日を待つだけとなったのに、何と、コロナの影響で、帰国が延期(27日)になるのです。ショックです。詳細はNO5をお楽しみに。(田中延子)