フィジー語学留学つれづれNo5  

皆さん、お元気ですか?

新型コロナの影響で、帰国が2週間も延び、帰国できるのか出来ないのか綱渡り状態でしたが、4月3日(金)にやっと帰国することができました。

世界各地でどんどん感染者が増え、空港閉鎖やトランジットまで禁止となるなど、全く大変な状況になりました。

東京では連日、100人単位で感染者が拡大し、緊急事態宣言が出されるか否かという状況。これは帰国できなくなるのではないかと、ずいぶん心配しました。

こんな状況に遭遇することは滅多にないので、経緯を書いておきたいと思います。

1 滞在一週間延長

18日にグッバイディナーも終わり、日本では入手できないと聞いたトイレットペーパーを20ロール購入し、スーツケースに収めた翌朝19日6時、まだ、ベッドの中でした。Kenさんからチャットで「ご存知だと思いますが、21日の成田便が欠航します。」「あらら、気の毒に。私は20日の便だから関係ないけど。一日ズレたら大変だった。」とほっとしたのも束の間、「20日の間違いでした。」と。「ええー帰れない!」23日に仕事の予定が入っているので、先ずは連絡をしなくてはと飛び起きました。

スーツケースに詰めたフィジーのトイレットペーパー

次に、ホームステイも私の後に21日からNew studentが入る予定になっていますから、ホテルかフラットに移動する必要があります。6時半にTheresaが起きて来たので、「かくかくしかじかで、私はホテルかフラットに引っ越すから。」と言うと「飛行機が飛ばなければ、New studentも来ないので、ここに居たら」と。なるほどそう言われてみればそうです。Charlesも「ずーっと居ていいよ」と言ってくれました。ずーっとは困るけど、せっかくだから、このまま延長することにしました。

Schoolに行って事の次第が分かりました。フィジーエアーウエイルズでは、コロナの関係で乗客が減少していたのですが、成田の発着枠確保上、赤字でも運航を続けていたそうです。ところが、世界的にこの制度が緩和されたために、20日と24日の便を減便し、27日を最後に6月まで運休することにしたのです。私の選択肢としては、成田直行便をキャンセルして、オーストラリアかシンガポールを経由して帰国する方法もありました。しかし直行便だと約9時間ですが、乗り継いで帰ると20~50時間かかる場合もあります。しかも新型コロナの影響で刻々状況が変化している中で、トランジット(乗り継ぎ)ができなくなると大変なことになります。確実に帰国するためには焦って右往左往するのは禁物。27日まで待つことにしました。JALやフィジーエアーウエイルズでチケットを購入していれば、自動的に27日に振り替えてくれるそうですが、私は格安チケット比較でスペインの旅行会社から購入したために、自分自身で予約変更しなくてはならず、早速、kenさんがチケットの変更とビザの延長に走ってくれました。他のStudentsやTeachersは「えー延子帰れないの?」と大拍手です。人の不幸を喜ぶなんてヒドイです。

危機意識を持った一部の学生は、私と同じ27日の便を予約しようとしましたが、満席になっており、急遽シンガポール経由で帰国を試みました。しかし、危惧した通り、シンガポールが自国民のみ入国させ、外国人のトランジットを禁止したために、やむを得ず、学校に戻ってきました。

2 学校

Colors English Schoolには、親子で入学してくる人や子どもだけが通学し、親はリゾートに勤しむ、また、レアな例では親がスクールに通い、幼い子どもは地元のkindergarten(幼稚園)に通園と言う例もあります。しかし、人種も異なり言葉の通じない幼稚園に一人だけ放り込まれた子どもは、流石に馴染めず、親御さんもゆっくり英語を学ぶことができない状況になりました。また、小学生は大人びた話をしていたなと思いきや、親に注意されたからと大泣きし、あまりの泣き声に何事が起きたのかとびっくり。やはり、子どもの性格や発達段階をよくよく考えないと、幼い子供の留学は難しいと思いました。

そんな中、中学を卒業して4月から高校生になる可愛いBoy2名が3月18日に入学してきました。二人は親友ですが、一人はハエがいてもキャーッと騒ぐほどの虫嫌い、犬が怖い、泥水や汚い環境も大嫌い、雨に濡れるのは嫌、おまけに寂しがり屋ときています。もう一人は九州男児らしく、それらを笑い飛ばす対照的な二人です。私は「そんなふうでガールフレンドができたときにどうするの?蟻や蠅ごときで、キャーキャー言っていたら、一度で振られるから。」と冷やかしていました。

この二人、せっかくフィジーに来たのに、31日の帰国予定が上述の飛行機の関係で自動的に27日(後に4月3日)に振り替えられ、週末が一度きりになってしまいました。フィジーでは観光客が減ったせいで島に行く船やリゾート地がクローズしてしまい、あらゆるアクティビティが行えなくなっていました。このままでは、何のためにフィジーに来たのか分かりません。そこで、お土産を買いたいと言う彼らを、ナンディの繁華街であるナンディタウンに引率することにしました。当日は大雨のためナンディタウンは停電でしかも大洪水でした。現地の人は気にしている様子はありませんが、ずぶ濡れで悲惨なショッピングになりました。彼らは家族や友だちにキーホルダーや小物など中学生らしいお土産を時間をかけて選んでいました。

窓ガラスのないバスに乗っている二人

3 新型コロナウイルス感染者

フィジーでは、コロナウイルス感染者はいませんでしたが、(というよりも発見されていませんでしたが)19日に隣町のナウトカ町に住むフィジーエアーウエイルズのキャビンアテンダント(男性)が感染していたことが判明し、大パニックになりました。近くのスーパーマーケットに住民が押し寄せて米やトイレットペーパー、水の買いだめが始まり、レジには長蛇の列が出来ていました。(私は前日にトイレットペーパーを買ってあったのでラッキーでした。)

買いだめで大混雑のスーパーマーケット

それが、翌日は、嘘のように買い物客が減り、不思議に思っていたのですが、Kenさん情報によると、彼らが買いだめに使えるお金はせいぜいF$500(27,500円)程度。よって1日しか買いだめができなかったそうなのです。

感染者が一人出ただけで町はロックダウンになり、国中の公立学校や他の語学学校は2週間の休校になりました。そんなに過剰反応しなくてもいいのにと思いましたが、21日にキャビンアテンダントの母親が、23日には姪である赤ん坊が、24日には他の感染者が見つかり、現在は5名になりました。最初の感染者が出た、ナウトカ町には日本人経営の大きな語学学校や日本の高校生を受け入れている高校がありますが、政府は一人たりともこの町から出さない方針を出していました。

連日、コロナの報道が過熱し、バスなどで日本人と中国人の見分けがつかないフィジアンから「コロナ!」と言われる学生も出てきました。

Colors English Schoolも学生同士の接触を避けるため、2メートル席を離したり、Techersもマスクを使用したりして続けていましたが、24日の夜に、突然4月6日までCloseすることになり、25日から、自宅待機になりました。どこもCloseしているし、出かける用事もないので、英語の勉強しかすることはなく、人生初の「退屈」を経験しました。

しかし、27日帰国だから、少しの我慢と思っていたら、26日の夜中に突然運航延期になりました。私が気づいたのは27日の朝です。

4 滞在延長二週間目

運航延期の理由は、ナウトカがロックダウンしており、日本人の学生が出られないこと、日本で中国や韓国、その他一部の外国人の入国を禁止したため、キャンセルが続出し、空席が沢山出来たこと、帰りの便にはフィジー国籍のある者しか乗せないため、席が埋まらないことでした。(飛行機の席が埋まるほど日本にフィジー人がいるとは思えませんが)結局、ナウトカのロックダウンが明ける翌日の4月3日に変更し、日本人学生を乗せて飛ぶことになりました。

こうなったら、本当に3日に飛ぶのかも怪しくなってきました。ホームステイでは、Theresaが「私は2年前に腎臓移植をしているから、感染すると死ぬかもしれない。外に行くときはマスクと手袋をしてね」と暗に出かけてほしくないような口ぶりです。しかし、三食昼寝付きで肥育状態ですし、確実に運動不足になります。そこで長期戦を覚悟して、スクワットと、腹筋、柔軟体操を毎日することにしました。本は英語しか持ってきていなかったのですが、一日中英語もストレスが溜まります。電子翻訳機にラジオ体操と日本文学、世界文学が入っていたので、翌日から、一日のスケジュールにラジオ体操と、読書を加えました。

30日からは夜10時から朝5時まで外出禁止令が出て、警察が取り締まりを始めました。それでも守らない若者が居て、首相が「守らないなら24時間外出禁止令を出してもいいのか。」と怒っていました。

4月1日には、ナウトカのロックダウンが4月7日まで延長となりました。その理由は、5人目の感染者が発見されて2週間後が7日だからと言うことです。と言うことは、またまたナウトカから日本人学生が出られないため、成田便が延期になりそうです。

2日にはスバ(首都)で二人の感染者が出て、3日からロックダウンになることが決まりました。もし、私が住んでいるナンディで感染者が出たら移動できなくなります。いよいよ、危うくなってきました。

日本では感染者が増加しており心配していたら、4月3日から全ての入国者に14日間の待機及び公共交通機関使用禁止(飛行機、列車、バス、タクシー)要請が出ました。仮に3日に飛行機が飛んだ場合、成田からの移動手段を確保する必要があります。知人に依頼することも考えましたが、検疫等で成田を出られるのが何時になるか分かりません。Colors English School代表の多田さんのレンタカーに便乗させていただくことにしました。

5 ゴキブリ退治

2日に「蜘蛛とヤモリは出てきたが、ゴキブリには遭遇しなかったな」と思っていたら、22時頃、私の部屋でブーンと大きな羽音がして何かが飛んできました。白い壁にピタッと止まったのは、足のながぁ~い巨大ゴキブリでした。北海道育ちの私にはゴキブリに対する免疫がなく、超、超、苦手です。真夜中に体の上を歩かれたり、顔の上に落ちてきたりしたら、確実に発狂します。退治せずして眠ることはできません。蠅たたきもないのでにノートを丸めて叩きましたが、素早くて逃げられてしまいました。リビングルームに助けを求めに行きましたが、誰もいません。仕方なく殺虫剤を吹きかけ自力で退治しようと思うのですが、窓かと思えば、天井でなかなか弱らないのです。とうとう物音を聞きつけTheres が起きてきて「延子、何をしてるの?」「コックローチ!!」と指さすと、「噛まないから大丈夫」と言います。「フィジーの蜘蛛もヤモリもゴキブリも噛まないから大丈夫!」と。「知ってますよ、噛まないことぐらい。そんな問題ではないんだって!」と思っていたら騒ぎを聞きつけて、Charlesが来てくれました。Charlesが「噛まなくても気持ち悪いよね」。やっぱり私はCharlesが一番好き・・・と思いました。結局、殺虫剤をかけられたゴキブリの動きがだんだん鈍くなって、つまみ出されました。最後の夜にとんだ大騒ぎになりました。

6 帰国

ゴキブリ騒動で興奮したのか、前回夜中にキャンセルになったのが、トラウマになっているせいか、なかなか眠れず、朝まで、何度もメールをチェックしましたが、「今のところ飛ぶようです。」という日本大使館のメールを最後に当日まで変更のメールがなく、やっと帰国が現実になりそうになってきました。

フィジー国内で感染者が増加傾向になったことと、日本の状況が怪しくなってきたため、フィジー政府が運航を決断したのだと思います。Charles とTheresが空港まで送ってくれました。

空港では、残る学生3人と先生、スタッフが見送りに来てくれて、小さな卒業式をしてくれました。Schoolの存続がかかっているので、彼らも不安だと思います。

3日の20:15に成田空港に到着しました。

検疫を受けて、2週間自宅待機の誓約書等を書き、多田さんのレンタカーで家に着いたのが23:30.なんか夢を見ているみたいでした。

2週間延長になったことで、初めてフィジーの上弦の月や、家の窓からヤサワ諸島の島々が遠くに見えるのを発見したり、Charlesがピザを作ってくれたり、Bread fruit(パンの実)を食べたりと、良い経験はしたけれど、やっぱり日本に帰ることができて嬉しいです。

仲良しになったパン屋の社長 FENDIのTシャツがお気に入り

私と先生たち

フィジーの自宅待機中、学校が退屈をしているであろう私たちのために「幸福」についてZOOMを使ったオンラインMeetingをしてくれました。その中で、幸福な人の条件の一つとして、「自分を助けてくれる人を30人以上持っていること」というのがありました。そんなにいるかなーと数えてみると、すぐ30人以上の顔が浮かんで来ました(本当に助けに来てくれるかどうかは別として)。今回、帰国できなくなった時に、一番うれしかったことは、そんな方々が心配して下さったことです。

今回の留学の成果は、改めて自分が幸福な人間なんだと認識できたことでした。(田中延子)

フィジー語学留学つれづれNo4

日本の皆様、いかがお過ごしですか?日本に一時帰国した学生が、フィジーに再入国できるかどうかとか、帰国間近の学生がコロナウイルスの感染が怖いので帰りたくない等、コロナウイルスに関する不安がここフィジーの小さな学校でも広がっています。

さて、2月とは打って変わり、3月になると毎日のように雨が降っています。バンクーバーで経験したようなしとしと雨ではなく、バケツをひっくり返したような雨が一日に2~3回盛大に降ります。4月になると乾季になり、一滴も降らない日が続くので、フィジアンにとっては必要な雨なのだそうです。

さて、いよいよ20日に帰国です。だんだん帰国モードになって来ました。今回は、フィジーのまとめにしたいと思います。

1 フィジーの歴史

フィジーは約330の島からなる共和国です。ニューギニアのパプア人が約8,000年前に住み着いたのがフィジーの歴史の始まりと言われています。Kenさんのブログによると当時は人食文化があったそうです。オランダのタスマン(1643年)、イギリスのクック(1774年)がこの島に上陸し、1881年から1970年までの約100年間イギリスの植民地として、サトウキビの栽培がおこなわれました。その労働力としてインドからカースト制度の中でも一番低いインド人が送り込まれました。

人食の証拠となる絵(kenのブログから拝借)

1970年にイギリス連邦王国として独立しましたが、先住民のフィジー系とインド系の民族対立が深刻になる中、1987年にインド系が政権を取ると、フィジー系のクーデターが起き1990年にフィジー系優位の憲法を公布。1997年にインド系の政治的な権利を拡大する改正憲法を公布し、ようやく「フィジー諸島共和国」となります。2011年に現在の国名である「フィジー共和国」に改称されています。フィジーはその観光資源を武器に発展を進めますが、商魂逞しいインド系が裕福になり、経済のみならず政治にも大きく進出したため、フィジー系が危機感を募らせ、その確執に嫌気のさしたインド人が出ていき、現在の人口構成は。フィジーの国民86万人中、フィジアンが50%、インド系が38%、残りは他の国の人々となっています。

2 ファミリー

Gray家の隣に昨年まで、Big Charlesの父母とSmall Charles 、Margueriteが住んでいました。年老いて(と言っても65歳)管理が難しくなったので売りに出しています。4ベッドルーム、2シャワールーム、プール、土地付きで日本円で3000万円です。高いので、なかなか売れません。今は彼らの家政婦が管理しています。

週末になるとSmall Charles とMargueriteがやってきます。私を待ち構えていてゲームをしようと誘ってきます。Small Charlesはチェスをしたいのですが、誰もルールが分からず、教えてくれると言うのですが、なかなか理解できません。簡単なゲームをすると、彼らはズルをします。不正直なのか、頭が良いからなのか、子どもってこんなものなのかが分かりません。

ある時、Small Charles とMargueriteのママが娘を連れて現れました。とても美人で素敵なドレスを着ています。オーストラリアに居るStep mother(継母)かと思いましたが、Run awayした実母と聞き驚きました。ほとぼりが冷めればこうして出入りできるなんて、なんとおおらかなフィジアンと思いました。しかし、Margueriteはママや妹にべったりですが、Small Charlesは距離を置いています。Big Charlesは無視していました。

3 学校

私のクラスは、学生4人に先生が一人です。ですから、学生も先生に対し遠慮がなく、変だと思うと厳しく指摘するので、時々、先生は立ち往生してしまい「延子はどう思う?」等と助けを求めます。同業者の立場から、つい先生側に立ち、問題が解決するとホッとします。

さて、前述したように私は「ボランティアコース」を選択しており、僅かですがお金を支払っています。

正直、まだ、この学校では、ボランティアコースが確立しておらず、「学生のしたいことをしたらよい」と言うので、流石、それは違うと思っています。フィジーにボランティアの必要な施設があって、学校としてどのような方向性で支援しようとしているのか、それが相手にとって助けになり、学生にとってもボランティア精神をはぐくむきっかけになるのかが大事だと思います。

そんな中、先述した公園での折り紙教室と鬼ごっこに続いて、PASH(動物保護施設)と孤児院を訪問しました。お年寄りの施設で紙芝居をする計画がありましたが、コロナウイルスの関係でキャンセルになりました。

(1) 動物保護施設 PASH(Pacific Animal Shelter and Hospital)

捨てられたり虐待されたり、または、傷ついた犬猫を保護・治療し、里親を探す取組をしている施設で、レントゲンなどの施設が整っています。これら動物の世話や洗濯、掃除などのボランティア活動を受け入れています。たまたまこの日は高校生のボランティアが入っていたため、私たちは餌を購入して差し入れし、施設見学をさせてもらいました。犬猫は手厚い保護を受けていましたが、それでも自分だけを可愛がってくれる里親に引き取られ、Only Oneの存在になりたいのか、盛んに尾を振ってなついてきます。中には、癌が悪化したら苦しまないように、安楽死が予定されている犬もいて、家族に囲まれて、最後の時を迎えるための部屋も用意されていました。

保護されている犬たち

(2) 孤児院訪問

孤児院に折り紙とシャボン玉遊びを教えるために二週続けて訪問しました。開設して間もないキリスト教の施設で、慈愛に満ちた老婦人が施設長でした。ここには、22人の子どもが入所していますが、折り紙に興味のある10人ほどの子どもが参加して飛行機と兜、河童や鶴を作りました。中には身体障害や知的障害の子どももいますが、ほとんどは健常児で、愛情に飢えているのか、体を摺り寄せてくる幼い子どももいます。

折り紙を一人一枚と言っても、一枚は隠し、再度貰いに来る子や目を離したすきに、我々のバックを開けようとする子がいて、昔、孤児院に勤務していた人が子どもに「どうして嘘をつくんだ!」と言ったら「嘘をつかなきゃ生きていけない!」と言い返されたという話をふと思い出しました。子どもたちの特性を理解しつつ色眼鏡で見ないことが大切で、それは、とても難しいことだと思いました。

兜を被った子どもたち

4 アクティビティ

紫外線アレルギーなので、海は苦手ですが、花は好きなので、今日は、Sleeping Giant Orchid Gardenに行ってきました。ナンディには巨人が寝ているように見える山があり、その麓に蘭の庭があります。

学生の仲間二人とタクシーで行くことにしました。フィジーのタクシーはほとんどが日本の中古車で、日本で役割を終えたタクシーが、再びフィジーで活躍しています。クーラー付きのタクシーを探していたら、超肥満体のドライバーが声をかけてきたので、メーター付きか(メーター付きでないと料金を誤魔化される可能性があります)、幾らで行くか等、訊ねます。$18で行くと言うので、(ガイドブックには$30と書いてあった)これは安いと思い乗り込んだら、極めて汚く、足元にはよれよれの段ボールが敷いてあり、もちろん自然通風でした。後述のIzumiさんが「フィジーのタクシーはこんなものよ」と言うので、そんなものかと諦めました。「帰りはどうするの?待ち時間はメーターを切っておくから」としきりに言うので「でも、2時間は待ってもらわなくてはならないですよ」と言ったら、ええーっという顔をしましたが、それでも待っていると言うので、ご自由にしていただこうと思い、Gardenに入りました。

Raymond Burrという外国人が世界中の蘭を集めたものを公開しており、日本のサギ草もコレクションに加えられているそうです。生憎、ハリケーンの後、修復が進んでいないため、入れない部分が沢山あって1時間で見終わってしまいました。それでもジャングルの中に南国の赤い花が沢山咲いていて癒されました。

帰りは、待っていてくれたタクシーでTanoa International Hotelの中の 「一休」という日本食レストランでランチをとりました。(後述、Simizuさんがオーナー)。お好み焼き、太巻きずし、冷やしラーメン、チキン照り焼きを3人でシェアし、$70(3,850円)でした。味、コスパ、サービス、ロケーション共に良かったです。実は、ここでのランチは、お世話になったGrey家を招待しようと思っていたので、雰囲気や味の事前チェックも兼ねていました。

その後、皆と別れ、スーパーで買い物をしていたら、大雨が降ってきたので、タクシーを探しているところに、先ほどのドライバーが大声で手招きしています。一日に2度、同じタクシーに乗るなんて、縁を感じたので、少し、チップをあげました。

5 さよならディナー

18日(水)にGrey家とSmall Charles、Margueriteを日本食レストラン「一休」に招待しました。毎日、車に乗せてもらい、何の不自由もなく過ごさせていただいた私の感謝の気持ちを彼らは素直に喜んで下さいました。Small CharlesとMargueriteは「いい子にしていたら」という条件付きだったため、この日のために相当頑張ったようです。

全員生ものは嫌だと言い、私の助言は全く聞かずBig Charlesは照り焼きチキン定食、Theresaは天ぷら定食、Darrylはチャーハン、 Small Charlesは照り焼きロールと野菜炒め、Margueriteは照り焼きロール、食後にアイスクリームをそれぞれ注文しました。私がシェア用にお好み焼き、照り焼きチキンとラーメンを頼むと、好奇心旺盛にいろいろなものに挑戦して食べたのは子どもたちで、大人たちは自分が頼んだものだけを食べます。食域を広げようとするのは、頭が柔軟なことと関連があると思いました。

最後に、Small Charlesが「今日が最後の日だね」と言うので「明後日が最後だよ」と言うと「いや、僕と延子が会うのがだよ」「また、いつか会えるよ」と大人みたいな会話をして、しっかりハグをして別れました。ぐすん、フィジーでの一番悲しい別れがSmall Charlesでした。

6 知り合った方々

この一か月で、出会った方々で印象的な方々を紹介します。

① Izumiさん(40歳代)学生

物静かで穏やかな女性で、週2回午前中のみ英語を学びに来ています。32歳上の夫とインドで知り合い、28歳の時に結婚。現在、11歳と12歳の男の子がいて、夫のリタイアメントビザでフィジーに暮らしています。「退職真近の男性とよく結婚したね?」と聞いたら、「インドマジックだった」と言っていました。夫妻は平成23年の東日本大震災で家を失った後、夫がインドの大学に招聘され、5年ほど教鞭をとっていました。しかし、夫の癌治療のため日本に帰国。その後、リハビリを兼ねて永住を目指し、フィジーに来ました。インドが好きなので、インド人が沢山住んでいるフィジーは暮らしやすいが、インド本国とは国民性やヒンズー語が変化しており、多少の違和感があると話していました。

② Simizuさん(65歳)日本食レストラン経営

ホームステイのファミリーに大変お世話になったので、日本食レストランに招待したいと考え、下見のため、ランチを食べに行き、オーナーの清水さんに、15年前にフィジーでお店を開いた経緯を伺いました。

学生時代にたまたま、パプアニューギニアでの戦争で片腕を失った漫画家の水木しげるさんが、その時にお世話になった現地の人と今でも交流しているというテレビを見て、その人に会ってみたいと思い、水木先生に電話をしたところ、とても気さくに、その村に行って、その人の名前を大声で叫びながら歩いたら、誰かが案内してくれるからと言われ、その通りにして、その人に会うことができたそうです。

パプアニューギニア滞在中に、木材を扱う人と知り合い、その仕事を手伝ううちに、フィジーに来たのですが、木材会社が廃業してしまい、日本食レストランを開店したのだそうです。妻子は子どもが小学生の時に日本で暮らすようになり、Simizuさんも年に2~3度、日本の家に帰るとのこと。レストラン経営はなかなかストレスも多く、目が離せないのだそうです。何しろ、フィジーの官庁は書類の提出が2~3日遅れただけで罰金をとるのに、3か月遅れた人には大目に見る。それが一定せず、担当者の気分で変わるので、非常に厄介だそうです。また、フィジアン従業員の教育が大変で、指導したら見ている前ではその通り行うが、見ていなければ元のまま。貯金はせず、給料を渡したら、3日で遣ってしまう。彼らは、庭にタロイモやパパイヤ、バナナ、ココナッツなどを植えており、それらを食べていれば、飢えることはなく、最悪の場合でも、誰かが助けてくれるのだそうです。しかし、Simizuさんの瞬発力、行動力には、本当に驚きました。

このように、ホームステイファミリーへのお礼や子どもたちへの別れも告げ、日本で不足しているというトイレットペーパーを20ロール、スーツケースに詰め込んで、後は帰国の日を待つだけとなったのに、何と、コロナの影響で、帰国が延期(27日)になるのです。ショックです。詳細はNO5をお楽しみに。(田中延子)

フィジー語学留学つれづれNo3 

日本の皆様、いかがお過ごしですか?世界的に、コロナウイルスの感染が拡がり、健康は勿論のこと経済的な影響も心配されます。さて、私のフィジー生活も3週間が過ぎ、帰国までに10日を切りました。暑いのとホームスティ生活なので行動は制限される反面、日本にいる時とは違い、ゆったりと時間が過ぎて行きます。

1 ホームスティ

3月になって、時々シャワーのような雨が降るようになりました。雨は鬱陶しいのですが、朝夕涼しくなり、熟睡できるようになってきました。

先週は、Charlesが頭痛で2日間事務所を休みました。途端に家は火の消えたようになり、やっと回復したと思ったら、次は肩こりで、辛そうです。Darrylも隣のおばさまも優しくマッサージをしてあげるのですが、一向によくならず、不機嫌です。いよいよ私の出番かと思い、「私が揉んであげましょうか?」と言ったら、よほど辛かったのか、即座に背中を向けました。肉厚なフィジアンなので渾身の力をいれて肩を揉んだら、相当痛かったのか、‟So hard“ と言うので、「もう少し弱い方が良い?」と聞いたら‟hard one nice!”と言うので、2日間、朝と夕食後に10分程度、揉んであげました。毎朝、学校まで送ってくれる心ばかりのお礼です。強く揉むのは揉み返しがあって良くないそうですが、体格の良いフィジアンなので、少しばかりハードでも問題はなさそうです。私のお蔭で(?)Charlesが元気になり、家の中が明るくなりました。めでたしめでたしです。

そういえば、朝の挨拶でしょうか、今朝、Charles(46歳) とDarryl(19歳)がしっかりハグしているのを目撃しました。大きな男のしっかりハグは初めて見たので、少しドギマギして見ないふりをしました。このように家族が仲良しで何不自由ないように見えるGray家ですが、10年前にMichelleという可愛い2歳の女の子を心臓病で亡くしており、このことが家族に暗い影を落としています。また、Theresaは2年前に腎臓移植を受けており、無理のできない体です。フィジーでは、なぜか腎臓病が多いようです。おまけにCharlesのたった一人の弟は、数年前に幼い子供(小さいCharlesとMarguerite)を残して妻がran awayしてしまい(フィジーではよくあることだそうです)その後、Girl friendとの間に3歳の娘が出来て、現在三人はオーストラリアで暮らしています。小さいCharlesとMargueriteは、もう少ししたら、オーストラリアに行くのだそうです。大人の事情に巻き込まれて、子どもは辛い思いをしますね。

3月8日(日)は、お天気が良かったので、Theresaが指揮し、CharlesとDarrylが重たいソファーやカーペットを外に運んで天日干しにしました。また、Charlesの父Johnの誕生パーティをするため、夫婦でご馳走を作っていました。フィジアン男性は当然のように家事をします。午後からはFamilyが集まってきて、お父さんの65歳の誕生日を祝っていました。Charlesが46歳で上にお姉さんが二人います。一体、幾つで結婚したのでしょうか?複雑な事情があるかもしれないので、追求はしないことにしました。

天日干しするためにソファを運び出す親子

Charlesのパパの誕生日に集まった家族と料理

2 学校

Colors English Schoolは日本人経営の学校で学生は日本人ばかりですし、少人数でもあり、皆、仲良しです。それゆえに瞬く間に情報が拡散し、私の年齢も知られているようで、比較的年齢の高い方からは「貴女を見ていると、諦めずに生きていく勇気をもらった。」とか、若い学生からは「先生の年齢になって、先生みたいに生きていたいので、日本に帰ったらちゃんと生きようと思う。」等、様々なコメントをいただき、皆さんが前向きに生きるためのお役に立つならば、それはそれで有難いことですが、私としては年齢という箍(タガ)をはめずに生きていたいだけです。「自分を諦めず、チャレンジを続ければ、幾つになっても成長する」と言うのが私の持論です。

男性のフォーマルウエア「Sulu」

このように、学校では、若い人たちから「先生」と呼ばれています。もっとも、大学で教えている学生とほとんど同じくらいの年齢なので違和感はありません。ニュージーランドやカナダに留学していた時にはサウジアラビア人から‟Teacher”と呼ばれていました。彼らは、私の解答を盗み見するために、‟Teacher” ‟Best friend”等と言って、いつも私の隣に座ろうとしていました。

こんな小さな学校にもいろいろな人間模様があり、興味深いです。20歳そこそこなのに、煙草もお酒も飲み、言動も上品とは言えないのですが、時々大人びた判断をし、頭の回転は良さそうなのに、パソコンは全くできない等、アンバランスだけれど皆に好かれている女子がいます。父親が母親の妹と深い中になっているのを、幼かった彼女がたまたま携帯電話を見て発見し、母親に言ったら、大騒動になり、父親が彼女をバイクに乗せて離れたファミレスに連れていき「家もおばさんの家庭も壊れたのはお前のせいだ!」と言って、置き去りにしたのだそうです。その後、父親はran awayし、母子家庭になったということです。その時の父親の行動が、妙に滑稽で印象に残った話です。

3 アクティビティ

学生たちは、週末のアクティビティに精力を注いでいます。先週はケーブルに金具を通して谷から谷を渡るジップラインとバーベキューに行きました。日光アレルギーの私は、BBQのみ参加しました。いい年をして怪我でもしたら恥ずかしいですしね。

ジップライン

翌日も元気な若者たちは、ビーチに行ったものの無謀にも紫外線のプロテクトをしなかったために、顔や背中が火傷の状態になり、月曜日は一日中「痛い、痛い」と騒いでいました。フィジーの紫外線は強烈です。

顔を冷やしている日焼け二人組

このように、1年に4~8週間程度、小刻みに英語留学を続けて5年になりますが、最近は目標のDoとDoes、5W1Hを使った会話がようやく出来るようになりました(えっ、そのレベルと言わないで!)。文法はある程度理解しているのに、Speakingに生かせないのが情けないです。では、次回もお楽しみに。(田中延子)

フィジー語学留学つれづれNo2

日本の皆様、いかがお過ごしですか?コロナウイルスの感染防止のため、全国休校とは驚きました。フィジーでは中国滞在14日前以降の人しか入国できず、中国人観光客が激減したために、経済的影響はとても大きいようです。

1 日常の生活

朝方は気温も下がり、心地よく眠れるのですが、6:30小鳥と山羊(家から離れたところに、牧場があります。)の鳴き声で目覚めます。日本でこのような贅沢な経験は、なかなかできないなぁと毎朝、思います。7時に小さなトースト1枚と、シリアル、目玉焼き、パパイヤ、ミルクティーの朝食をとり、7:45CharlesとTheresaの車に同乗し、Schoolに行きます。歩くと15分くらいかかり、しかも暑いので、このご好意には感謝するとともに、死守したいと思っております。

8:30~15:30は授業ですが、火・木はボランティアコースがあるので、17:30に終わります。夕方には暑さが収まるし、下校の途中に、地元野菜や果物の直売所が並んでおり、バナナ(8本で150円)等を買って帰ります。18:00には、Dinnerなので、遅れないようにしています。食事作りはTheresa、食器洗いはCharles、食器拭きと戸棚に収めるのはDarrylの担当です。フィジアンの男性は当然のように家事を手伝います。

Darryl

しかし、私がいる間はCharlesを休ませてあげたいので、食器を洗うようにしています。その後シャワーを浴びて、部屋に戻ってもまだ、19:30くらいなので、信じられないくらい時間があります。そこからメールや日本のニュースをチェックし、予習復習をしても22:00には終わります。何しろ部屋が暗くて長くは続きません。初日に発した言葉がDo you have a lamp? 学生に卓上ランプは必須でしょうと思うのですが、フィジアンは目が良くて暗くても見える(ホント?)ため、卓上ランプは必要ないのだそうです。早速、電気屋さんに行きましたが、売っていません。有ってもやたら高い(10,000円くらい)。困っていたら学校のスタッフのKenさんが$25(1,375円)のを見つけてきてくれました。大感謝です。

このような状況なので就寝は22:00です。先日、白い壁を黒い物体が横切ったなと思い飛び起きてみると足の長~いSpiderが窓に張り付いています。夜中に顔の上に落ちてきたら発狂すると思い、スリッパで叩いて退治しました。翌日の夜はヤモリの赤ちゃんが出てきたので、また、退治しようスリッパでパッタンパッタン追い掛け回していたら、Theresaがどうしたの?と起きてきたので、流石、ヤモリをとは言えず、「Spiderが」と言ったら「Spiderは噛まないから大丈夫」と。そんな問題かなーと思っていたら、その内、ヤモリの赤ちゃんは私の部屋を出て行きました。こんな風で様々な活動をしつつ、ベッド入りますが、暑いし、目が冴えてなかなか眠れず、結局、睡眠時間は日本にいる時と同じくらいになります。

2 Kenさん

学生やスタッフから「Kenさん」と呼ばれて愛されている提憲治郎さんは、約20年前に単身でフィジーにやってきて、ホテルマンなどを経た後、現在はColors English Schoolに無くてはならない存在です。今年、71歳になりますが、15年前に日本にいる妻から「貴方を自由にしてあげます」と言われ離婚されたのだそうです。そこで婚活し8年前に現在31歳の妻を得て、2歳の女の子と1歳に満たない男の子のパパになっています。日本人は40歳も年下の妻をGetしたKenさんに「犯罪じゃないのと」驚きます。

Kenさんこと堤憲治郎さん

元妻から「自由にしてあげます」と言って離婚されたことを彼は、善意に解釈しているようなので、私が「奥さんは貴方を自由にすると言うより、実はご自身が自由になりたかったのではありませんか?」と言わなくても良いことを言うと「そう言えば、元妻は離婚後すぐに再婚した」と言うのです。静かな水面に石を投げこんだようで、ごめんなさい!!です。

このKenさんが学生たちの面倒をとてもよく見て下さるのです。私もバスカードを欲しいです。お金を両替して下さい、ランプ(前述)が欲しいです等。Kenさんにお世話になっており、彼はこの学校の宝だと思います。

日本の食べ物が懐かしいようなので、持参した六花亭の「白樺羊羹」をお裾分けしたり、茨城の干し芋を分け合って食べたりしています。

3 ボランティア活動

私は、孤児院や貧しい方々への支援活動をする中で、英語力を身に付けるという一石二鳥を狙って、ボランティアコースを選択していますが、このコロナウイルスの影響で、東洋人の施設への受け入れが難しくなっているのだそうです。そこで、今日は、貧しい地域の子どもたちに、折り紙と鬼ごっこ教えるために、公園にやってきました。折り紙の飛行機を飛ばしたり、兜を被ったりしていると、子どもたちが30人以上集まってきました。そして折り紙を真剣に折った後、歓声をあげながら鬼ごっこをするなど、とても無邪気です。我々大人は、暑い中走り回って、汗だくで疲労困憊し、一時間ほどで退散しました。中には「折り紙を教えてくれて有難う」と握手を求めてくる子どもがいて、その折り目正しさに清々しい気持ちになりました。これをボランティアというのかどうか分かりませんが、子どもたちと触れ合えたことは収穫でした。

兜を被った先生

鬼ごっこ

4 アクティビティ

(1) UGGの工場

一昨年にメルボルンで購入したUGGのスリッパの肌触りが良く、可愛くて気に入ったので、フィジーにUGGの工場があり、しかもオーダーメイドに対応していると知り、是非、見に行きたいと思っていました。ホストファミリーや先生に訊いても、知らないとの返答。この暑いフィジーで羊毛の靴やスリッパなんて無用ですから知らないのは尤もなことです。

そこで、前述した憲さんにお願して連れて行ってもらいました。広いスペースに色とりどりの羊の毛皮とブーツやバッグなどが陳列されています。「初日には買わないほうがいい」というKenさんの助言で、見るだけにしました。この日はマネージャーらしき人がたった一人で、客は一人もいません。コロナウイルスの関係で中国人観光客が激減したからだそうです。ダウンタウンの日本料理店もこの影響で閉店していました。マネージャーが今日だけ10%オフにすると言うのですが、来週も多分、再来週も10%オフでしょうから、オーダーするのは次回にしました。

(2) ファイヤーダンスショー

郷土芸能には、元々興味があるので、ナンディタウンのファイヤーダンスショーを見せるレストランに行きました。ショーが始まるまで、食事やお酒を飲んで待ちます。店員が殆どGayなので、歩き方やシナのつけ方がクネクネし、最大限に可愛く笑うので、この人たちのしぐさを見ているだけで、結構、楽しめます。

ショーは、原住民スタイルの男女がタイマツに火をつけて、クルクル回しながら、または、火の上を這って渡るなどして観客からチップを集めます。こういう時、日本人はチップを渡さない人が多いのですが、彼らの頑張りに対し、盛大な拍手を送るとともに、チップを渡すのが礼儀だと私は思います。

学生たちとファイヤーダンスショーを見物

(3)アイランドツアー

紫外線アレルギーとはいえ、フィジーに来て海に行けないのは寂しいと思い、ツアーデスクには、くれぐれも日陰になる席を用意してほしいと頼み、本当に大丈夫ですかと念を押し、Students 6名で島を巡るツアーに出かけました。強烈な紫外線なので、日焼け止め、サングラス、つばの広い帽子、長袖、長パンツ、スニーカと完全防備し、おまけに船酔いするので酔い止めを飲みました。

船の中は、フルーツやスナック、飲み物が自由。海と空がコバルトブルーで、吹く風が優しく、うっとりしながら2時間たち、無人島に上陸しました。

ランチまでの一時間、皆はシュノーケリングに出かけましたが、私はすることがないので、フィジアンのおじさん二人が不器用にランチ用のナイフとフォークをナプキンに包んでいたので、手伝うことにしました。「どこから来たの?何しに来たの?いつ帰るの?」等会話がはずみます。「夫はいるのか?」「いない」と答えた途端、「この男が独身なので、結婚しないか?」と急に盛り上がり、Kenさんの逆パターンの話になりました。その男性もまんざらでもない様子で、その後、とても親切にしてくれました。フィジアンの男性は、家事をよくするようですし、平均寿命は60歳くらいだから、丁度いいかもしれません(笑)。

ランチの後、オプションのマッサージを受けることにしました。45分で$85(4,600円)を$70(3,900円)に値切ったのですが、結局は30分で終わりました。他の人も45分のはずが15分で終わったので、交渉して安くしてもらったそうです。時間が短くなっているのを気付かず、正規料金を支払っている観光客が沢山いました。しかし、マッサージ師の良心として、私の肩こりが酷く、しこりになっていたので、それをほぐそうとして、その部分を集中的にマッサージしてくれて、終わった後に、貴女は疲れているから、また、マッサージを受けたら良いと勧めてくれました。

結婚願望のフィジアン男性

帰りの船ではクルーがギター演奏

その後、2時間かけてナンディに戻るのですが、船内ではアフタヌーンティーの提供やギター演奏などもあり、至れり尽くせりのツアーに皆、満足していました。これで$199(11,000円)は、安いと思いました。

夜中に痛痒さで目覚めました。ななななな~なんと、あんなに気をつけていたのに背中半分と足が日光湿疹で赤く腫れあがっています。常備薬を塗った後、じっくり考えたところ、マッサージ中に太陽が移動して、半身に日が当たってしまったようです。30分で止めてくれなかったらもっと酷いことになっていたかもしれません。自分の詰めの甘さにがっかりしています。

5 ホームスティ

金曜のファイヤーダンスショーを終えて家に帰ったら、とても賢そうな顔の男の子がいて、Charlesの甥のCharles11歳と名乗りました。大きいCharlesには弟が一人いますが、尊敬する兄のようになってほしいと願い、自分の最初の子どもに兄の名前を付けたのだと思います。美しい話です。私はかつてこんな賢そうな顔をした子どもを見たことがありません。将来、彼はおじさんを凌ぐ立派な男性になると思います。

彼の父はオーストラリアに単身赴任中で、義理の母親と妹のMarguerite(マーガレット)と三人暮らし。週末になると伯父さんの家で過ごしているそうです。

Darrylは幼い妹を亡くしていますから、幼い従兄妹の面倒をよくみていて、とても微笑ましく思います。

Charlesと妹のMarguerite

では、皆様、コロナウイルスの対応で大変ですが、ご自身も罹患しないようにお気を付けください。次回もお楽みに。(田中延子)

フィジー語学留学つれづれNO1

日本の皆様、いかがお過ごしですか?日本では感染経路の分からない新型コロナウイルスの感染が拡がり、ご心配なことと思います。

そんな中、2月18日に成田からFiji Airways21:25の便で英語留学のためフィジーに来ました。「ええーフィジーってどこにあるの?」「英語圏なの?」と言われる方も多いのですが、フィジー共和国はニュージーランドやオーストラリアの近くにあり、1970年に英連邦の国として独立するまで長い間英国の植民地だったため、公用語はフィジー語と英語なのです。なぜ、フィジーを選んだかというと、温かくて明るい、未知の国に来たかったからです。

1 出国からフィジー入国まで

成田では、新型コロナウイルス感染防止のため、航空会社職員が全員マスクを着用しており、Fijiでは14日以内に中国滞在歴のある人は入国禁止(幸い私は約1か月経過していました)日本、香港、シンガポール国民は健康状況を申告するカードを提出しなければなりませんでした。Fiji Airwaysでは、成田からナンディまで直行便が週に3便あり、機内では、夕食と朝食の機内食、日本語の映画もあって退屈することはなく、19日の朝8時(時差が3時間なので、フライト時間は8時間30分)にNadi International Airportに到着しました。

Colors English Schoolのスタッフである憲治郎さんに出迎えられて、学校に連れて行ってもらいました。この学校は日本人の経営なので、Teacherはネイティブですが、学生は殆どが日本人です。ですから語学留学5回目の私にとっては、なかなか居心地が良いのです。若者にはどの国の男もチヤホヤしてくれますが、この年になると気が合うのはTeacherだけです。さらに、諸外国の方々とは、当然、国民性も違うため、それが面白い反面、付き合うにはそれ相当のストレスを覚悟しなければなりません。

しかし、日本人ばかりだと、英語力が身に付かないと思ったので、例年はホームスティとアパートを半々にするのですが、今回はホームスティのみにしました。仮に当たりが悪くても(過去に不運なホームスティ生活を経験)1か月なら我慢できるかなぁーと。

2 フィジーの生活

フィジーの国民は86万人、その内、フィジアンが50%、インド系が38%、残りは他の国の人々です。昔、フィジアンは積極的に働かないので、労働力としてカースト制度の一番下のインド人を移民させたのだそうです。インド人は商魂たくましいので経済発展の機動力になったのですが、フィジアンに差別され、嫌気がさして、多くの人が本国に帰ったのだそうです。

ホームスティするに当たり、フィジーアンかインド系の家庭を選択できると聞いたので、即座に「フィジアン」と答えました。すると、「人種では選べない。例えば辛い食べ物が苦手とかの理由なら良いが」と言われたので、即座に「辛い食べ物は食べられません」と答えました。どうせフィジーに住むならフィジーの文化や国民性を知りたいですからね。

ネット情報では、まだまだ発展途上国であるフィジアン一般家庭には冷蔵庫や洗濯機もなく・・・とあったので、屋根はあるけど壁がない、ゴキブリやヤモリもいるかな・・・などと想像してきたのですが、ホームスティ先のGrey家は設計事務所を経営している夫のCharles(チャールズ)、妻のTheresa(テレサ)は事務、大学生の息子Darryl(ダリル)の3人家族、それにVura(白の意味)という名前の愛犬がいます。因みにフィジアンの挨拶は「Bura(ブラ) !!」です。幸いCharlesは物静かな、愛情深いインテリの男性です。5年ほど前にTheresaが腎臓病を患い、インドの病院で腎臓を一つ妻に移植したのだそうです。更に10年前に娘を亡くしており、不幸を乗り越えて寄り添って暮らしています。Theresaも静かな飾らない性格の人で好感が持てます。私の経験では、最初から良い人ビームを放つ人は、途中で息切れしてしまい、悪い人ビームに変異する場合がありますので、注意が必要です。

CharlesとTheresaが「貴女の英語は、分かりやすくて上手よ」と言ってくれます。勿論お世辞だとは思いますが、5年前に初めてニュージーランドに留学した時のことを思えば、赤面の至りで、日常会話は何とか通じており、少しずつですがスキルアップしていることを嬉しく思っています。

この家には、冷蔵庫や洗濯機、電子レンジがあります。Theresaが無理の出来ない体なので、週に3日ハウスキーパーのNaomiが来て私の部屋の掃除や洗濯をしてくれます。他の学生の家庭では、洗濯機や冷蔵庫がない人もいるので、私はたいへん恵まれていると、ここを選んでくれた学校に感謝しています。

が、しかし、暑い!!フィジーは今が一番暑い季節で最高気温32℃、最低気温26℃くらいなのに、クーラーがなく(学校にはありますが)、自然通風と扇風機が頼みの綱です。おまけに私は紫外線アレルギーがあり、太陽に皮膚を曝すことができません。ビーチに誘われても日焼け止めクリーム、長袖、長ズボン、帽子、日傘と重装備です。最も不向きな国に来てしまったと思いますが、この生活を乗り越えられたら怖いものは何も無くなるかもしれません(笑)。

Charles&Theresa

ダイニングテーブル

私の部屋

いつもながら少ない洋服と荷物

3 フィジーの英語学校

学校は朝8時半スタート、家からは歩いて15分程度ですが、今のところ、Charlesが出勤途中に学校の前に降ろしてくれるので、大助かりです。

私のカリキュラムは1時間目が自習なので、コーヒーを飲みながらゆったりと過ごせます。2時間目はOne of oneと言ってTeacherと一対一でSpeakingです。これを毎日続けたら、会話力が付くのではないかとおおいに期待しています。その後、4時間はGrammarを学びます。他の学生はこれで終わりですが、私はボランティアコースを選択しているので、火・木は更に2時間学びます。こんな感じで、朝から夕方まで、暑い中、勉強に励んでいるのです。

4 初めての休日

22日(土)は、暑いから外出したくはないのですが、ファミリーが心配するし、勉強だけでもねぇ・・・と思いダウンタウンにあるナンディタウンに出かけることにしました。しかし、地図もバスの路線図や時刻表も無い、Google mapもフィジーについては網羅していないのですよ。文明の利器に額まで浸かっている私としては不安で仕方がありません。学校の近くにバスが止まっていたのを思い出し、そこまで行ってみることにしました。そして「ナンディタウンに行きたいが、バス停はどこか?」と聞くと、とても親切に教えてくれました。暫くして、おんぼろなバスが来たので(おんぼろでないバスもありますが)行き先を運転手に告げ、バスカードをかざしてレシートを受け取ります。このバスにはクーラーが無く、自然通風です。ナンディタウンまでの途中、幾人もの乗客が乗って来ますが、時にはバスカードを持っていない人が、現金を運転手に渡すのです。これって運転手のポケットマネーになるの・・・?と疑ってしまいます。だって出発時はバスカードが無ければ、乗せてもらえないのです。チャージ不足の子どもがうなだれて降りて行ったり、見知らぬ学生に自分のバスカードを貸す親切なおばさまが居たりしていたのですから。そうこうしている間にナンディタウンに到着。早速、フィジアンの男性が、日本語で話しかけてきます。しきりに観光ツアーを勧めるので、「私はナンディの地図が欲しいのだが、貴方は持っていますか?」と言うと「事務所に行ったらある」と誘われました。こういう人に付いて行ってはいけないとネット情報に書いてあったなぁ~と思いつつ付いて行くと、喫茶店と旅行社を経営しているやり手のおばさまのところに連れて行かれ「このツアーはどうか?あのツアーはどうか」と勧められます。結局、地図は無いのです。「友達と相談の上、来週来るから」と言い逃れして、帰ろうとすると、彼が「僕にチップは?」と請求してきます。「契約が成立していないのに、チップを払うはずがない!」と怒ったら、途端にしょんぼりしたので、丁度、喉が渇いていたし、オレンジジュースを注文し、彼にはアイスコーヒーを奢ってあげました。その後も、自分の仲間の店に連れて行こうとするので「貴方は、別の客を見つけなさい」と別れ、市場に向かおうとしたら、彼が道路の向こうで「そっちじゃない、市場はこっちだよ」と大声で叫んでいます。そして、市場まで連れて行ってくれました。やっぱり根は良いフィジアンです。

 

市場に並ぶ、きゅうり、トウモロコシ、オクラ、なすび

市場の様子、しょうが一皿55円

市場で、知的な顔をしたフィジアン夫婦からマンゴーとトマトを買いました。タクシー乗り場を訪ねると、同行してくれて、メーター付きのタクシーを探して乗せてくれました。メーター付きでないと運賃を誤魔化されるからです。

行きのバスはF$1.8(100円)でしたが、タクシー代はF$13.30(732円)でした。暑い中をテクテク歩くことを考えると安いものです。家に到着し、20$札を渡したら、0.70$戻してきました。「足りないよー」と言うと慌てたふりをして、1.7$戻してきました。「まだ5$足りない」と言うと、仕方がないなーという感じで5$札を戻してくれました。油断も隙もありません。しかし、芯から悪人になれないのがフィジアンのようです。1.7$はチップとしてあげました。と言うことで、今回は、フィジー生活5日間の体験をお知らせしました。次回もフィジーの徒然をお届けしますので、お楽しみに。(田中延子)

令和2年1月12日 中国遼寧省にて講演

中国遼寧省の瀋陽市栄養士協会主催の「中国食育研究健康学会」で「学校給食が教育(食育)に果たす役割」について講演

新年早々の1月11日(土)、鹿児島聾学校の飛松佳子栄養教

諭とともに18:50成田を発って約4時間、瀋陽国際空港に21:30(時差1時間)到着。遼寧省は中国の東北地方に位置しており、気温は-15℃と私の出身地北海道十勝と同じくらいです。鹿児島の飛松栄養教諭には初体験の寒さです。瀋陽市栄養士協会の許さんと、通訳の張磊さんの出迎えで、瀋陽国際ホテルに到着。

1 瀋陽栄養士協会

2014年に中国栄養協会に認可された団体で,公共栄養士や給食業者等、約2,000名の会員が所属し、スタッフとして約30名雇用しています。2019年に設立5周年を迎え、そのイベントとして「中国食育研究健康学会」を開催しました。

協会は調理学校を経営しており、年間1500名を教育するとともに、週末には親子の食育教室も有料で行っており、それが協会の資金源になっています。中国においても「食育」が共通用語になっており、食育で一旗揚げようかと模索している状況が窺えました。

2 中国食育研究健康学会

1月12日(日)、瀋陽国際ホテルにおいて、中国東北地方から集まった参加者約350名で開催。各会員の実践発表、座談会の後、田中の講演(学校給食が教育(食育)に果たす役割)と、飛松栄養教諭の食育の模擬授業(カルシウムの働き)を行いました。講演と模擬授業を夕方にしたのは、参加者を途中で帰さない作戦だそうです。

3 学校及び調理場視察(幼稚園・高校・給食会社)

瀋陽市の学校給食は北京や上海などと同様、市の財政が豊かな地域なので、政府からの補助はなく、全額保護者負担で行われています。

(1)瀋陽誠餐飲有限公司

今回訪問した給食会社は毎日90,000食を調理する調理委託会社です。社長の李さんは食育に関心があり、2年前に東大を訪問し「食育とは何か」を学んだが、今一つ腑に落ちていなかった。しかし、田中の講演を聞いて理解できたと話してくれました。

給食費は次表通りですが、原材料代としてその25~30%が充てられています。日本と比べると物価が安いので、主食、主菜、副菜(牛乳は提供されていない)の、ほぼ豊かな給食が提供されていました。中国には栄養士がいないため、献立は、大学の栄養学部の先生に依頼して作成しています。

給食の安全性に関する保護者の関心が高いため、モニターが設置されており、調理従事者を一括管理できるとともに、保護者を安心させることにも繋がっています。また、使用食材を展示したり、細菌や農薬検査を行ったりして、安全な給食のアピールに努めています。

野菜の洗浄・切裁を行う機械

(2)中高一貫校の学校給食

前の週に生徒が食べたい給食を選択し、当日は顔認証でその給食が提供され、代金も口座から引き落とされるシステムです。また、教員の給食は会社が無償で提供し、教員用の食堂で喫食していますので、給食指導は行われていません。

生徒たちは、大きな食堂で思い思いの給食を食べていますが、指導がされていないため、残菜量が多いのに驚きました。中国は余るほど提供するのが食文化ですので、残すことへの抵抗はないようです。

(3)幼稚園

瀋陽市で最も優れた幼稚園として評価されている「皇姑区実験幼稚園」を訪問しました。入園希望者が多いので、選抜された幼児400名が通園しています。低中高が各4クラスずつ、計12クラスあり、保護者との連携や、成長過程の記録、中庭を中心に四季の移ろいを感じさせる工夫や鳥や動物との触れあいなど配慮されており、素晴らしい幼稚園でした。

幼稚園の園長(田中の左)と瀋陽市栄養協会のスタッフたち

4 遼寧省の食事

瀋陽市は中国の東北地方です。小麦粉やじゃが芋、トウモロコシ、こんにゃくを使用した食事が多く、餃子が郷土料理です。

5 おわりに

遼寧省は中国の東北部に位置し、県民性は素朴で控えめです。そんな若い女性スタッフ達と共に時間を過ごす中で、私は日本の栄養教諭達や調理とダブって「可愛い!」と感じていました。最後の夜に彼女達が「今は、冬だから、食べられるものは限られるけど、夏に来てくださったら、あんなものも、こんなものも先生に食べてもらいたいです。私が運転をして先生をご案内します。」と言ってくれました。国籍は違っても人の心は通じるものだとつくづく感じる瞬間です。そして、彼女たちのためにも中国の学校給食と食育の充実・発展を応援して行こうと強く思いました。

帰国後、コロナウイルス騒ぎが勃発!遼寧省は武漢から遠く離れているものの、コロナウイルスに負けず、元気で再会したいと願うばかりです。(田中延子)